鳥取城跡のキャラクター「かつ江さん」。兵糧攻めにあった市民を描いたキャラクターだそうだ。手に持ったカエルは、この兵糧攻め時に鳥取城督であった吉川経家がその責任をとって自害した時の辞世の句「武士の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん」から来ているそうだ。
=兵糧攻めをキャラクター化したらダメか?=
かつ江さんさんは、鳥取の歴史や鳥取そのものに関心を持ってもらうキャラクターとして悪くないと思う。それにかつ江さんさんが不謹慎ならば、元々戦いのために建造されたであろう城をディフォルメし、悲劇の起きた鳥取城なのに花吹雪が舞い、酒を飲んでいるのか頬を赤らめ、ヒトラーのような髭まで生やした鳥取城公式マスコットキャラ「とりのじょう」だって表面的に見るから不謹慎さが見え辛いだけで、不謹慎さの度合いは変わらないであろう。
例えば、タロットカードの「死神/死」のカードは、黒死病/ペストを表しているとも言われている。大抵の場合その絵柄は、骸骨がまるで生きているかのように立っていたり、動いていたりする様が描かれている。つまり、この見方をした場合、この「死神」のカードは「黒死病」を象徴するキャラクター=マスコットキャラといえるわけだ。これを黒死病と関連付けなくとも、このカードが死の象徴であることには間違いなく、死体そのものであるはずの骨が、生者のように動く姿が描かれているわけであり、それは「兵糧攻め」を象徴した「かつ江さん」というキャラクターと重なり合う。(「せんとくん」でも公開当時問題になったと聞くが、あちらは少なくともデザイン面での問題に限れば、宗教的モチーフを連想させるキャラクターであったために起きた問題で、その点は日本人の宗教に対する意識の軽さや無理解に起因し、「かつ江さん」の問題とは少々違った問題であろう。)
なお、この「かつ江さん」を目にした同名の中学生が「自殺する」などと親に訴えた、なんて報道もあるが、「実存する人名を持つネガティブ/ポジティブな印象を持つキャラクター」が有名になることにより、いじめに繋がるといった話は避けられない話しだ。広島の「原爆の子の像」=「禎子像」だって、『リング』の「貞子」だって、同名なために同級生にネタにされた人がいた、なんて話は学生時代聴くことがあった。ただ、かつ江さんは架空のキャラクターであるから、改名するようなこともあるかもしれないし、それが悪いこととも言えないだろう。しかし「飢え殺し」という言葉とかけているから「かつ江さん」という名称になってはいるが、もし実際に「かつ江」という名前の人物が当時実在しており、その人をモデルにしていたら、このような名前がどうこうといった問題はなかったことだろう。私の知り合いのエジプト人であるフセインさんはイラクの「サダム・フセイン元大統領」のせいで日本で姓を呼ばれた時に周りの人から怪訝な目で見られていたし、同じ姓や名の人が迷惑を被るから公開をやめてとか改名してというのは、「安倍という苗字を持っている人が外国の人から右翼呼ばわりされて困るから安倍首相辞めてよ」という話と似て聞こえる。
それにしても一度公開されたかつ江さんが、(一部報道では)たった数件の批判メールを受けただけで取り下げられるというのは非常に変な話だ。その後予想されるより多くの批判を受けて立つ自信がなかったのだろうか。それとも元々批判が来ることは予期しており、話題を生みたいがためだけに、「公開して、批判が来たら公開中止しましょうか」と、公開中止部分まで予定立ててやっていたのだろうか。
このキャラクターが公開される以前から、Googleで「鳥取城 」(とっとりじょう スペース)と入力すると検索候補として「鳥取城 兵糧攻め」と表示されるほどだったので、そもそも鳥取に城があったということを知る人にとっては、兵糧攻めの話もよく知られた話だったのであろう。だがそもそも鳥取に城があったということを知らない人が多い中で、かつ江さんが短い間でも出てきたことは意味があることであった。
(日本海に)大きな波を立てて登場し、公開中止となったために、その波間にいま飲まれている状態のかつ江さんではあるが、まだ完全に海の藻屑となったわけではない。
=史実を(適当に)ゲーム化したらダメか?=
現在「期間限定配信」でAndroidデバイス向けに『かつえさん 鳥取の飢え殺し』というゲームがrin studioから公開されている。鳥取城から逃げてくるかつ江さんたちをプレイヤーが鉄砲隊で「やっつけ」るゲームで、ゲームとしての完成度は高くはない。不謹慎と見る向きがあるのも当然だが、「将棋」にしろ『信長の野望』にしろ、現実の戦争を簡略化してエンターテイメントにしたものであり、このゲームも見方によっては教育的価値を持っているといえるかもしれない。
史実をある意味捻じ曲げたり、ディフォルメしたりする行為は、歴史の中でも多く起こっていることだろうし、それらを大衆に向けた作品として作るときには更にこれに拍車がかかっていることだろう。大抵の戦争映画やゲームは、戦争を美化しがちだし、その勝者が正しかった用に描いたり、(『軍師官兵衛』で鳥取城の飢え殺しがすっ飛ばされたように)それを伝えることが都合が悪ければ(表現上の都合や資金面での都合も含め)それを伝えないことで、「寝た子を起こさない」ようにして起こったことを一般大衆に忘れ去られるにまかすことも可能だ。
第2時大戦後をモチーフにした映像作品や、特にゲーム作品では事実のディフォルメ行為はとても一般的であり、「ノルマンディー上陸作戦」を追体験できるものなども多数あるし、「敵は極悪非道のナチ兵だから殺していい」という図式が古くから成立している。1992年のゲーム『ウルフェンシュタイン3D』に至っては、敵はナチ兵なのだが、ミュータント兵が出てきたり、ヒトラーをロボット化したような敵まで出てくる(ちなみに『ウルフェンシュタイン』シリーズは1981年から続くゲームシリーズで、今年も新作が出ていることからも、この作品が大衆に受け入れられていることが見て取れよう)。この作品では面白いことに、敵として犬が出てくるのだが、動物愛護団体からクレームが出たために、バージョンによっては本来犬であるはずの敵がネズミになっていたりした。つまり人を殺してもよくて、犬を殺してはダメということから表現が変更されるという、変な事になった。これはネズミや犬なら殺して良いと私が思っているという意味ではない。人にせよ犬にせよ、連合軍であれ枢機軍であれ、(現実の戦争では)下された命令に従い、人を殺していたはずで、立場上は同じはずなのに…。
ナチ=悪(だから個人の思想はどうであれナチの兵隊もすべて悪)とみなし、戦争を正当化したメディア作品、そしてその一般大衆にとって正当化されてしまった戦争を元に、ディフォルメした作品が存在し、それが「こんなの倫理的に間違っている」として潰されること無く、大衆に受け入れられてきた。現実離れした脚色を(あまり)加えずに第二次世界大戦から未来戦(未来線は勿論完全なフィクションだが)を、主に連合軍側から描いてきた『コールオブデューティー』シリーズでは当然ながら日本軍が敵として登場する作品『Call of Duty: World at War』(2008年、日本版未発売)が存在する。
そんなゲームが今も出てきている状況で、出てきたのがこの『かつえさん 鳥取の飢え殺し』である。
これはほぼどのようなゲームにしても、芸術作品にしても、何にしたって言えることだろうが、それに対する見方を変えるだけで内容の受け止め方も大きく変わる。例えば前述の『ウルフェンシュタイン3D』だって、カルト研究だってしていたというナチのことだから、もしかしたら連合軍が勝利しなかったらミュータント兵とかも作っていたかもしれないので「歴史のもし…」のシミュレーションとしても見ることができるが、逆に言えばナチは一般兵から犬の一匹まで殺すべき対象として描いた作品という見方もできる。『Call of Duty: World at War』だって、日本軍と戦った兵士を主人公に、戦争の苛酷さをゲームというオブラートに包んで現代の若者たちに教える作品という見方もできるし、日本人を敵として考えるよう洗脳するためのプロパガンダゲームと見ることも可能だ。主人公がヤギになって街中を暴れまわれるゲーム『ゴート・シミュレーター』だって、一見するとただの冗談のようなゲームであるが、作者はその作品に哲学的な話を仕込んでおり(後付的なところもあるのかもしれないが)、作品の表層的な部分の解釈/見方を変えることで(拡大解釈とも言えるだろうが)それを高尚な作品に変えることも可能だ。
『テトリス』だって一瞬で状況を見極め、的確な判断を下すための訓練ゲームと見ることも、ただのブロック消しゲームとみることもできる。有名画家が描いた絵を、子供の描いた絵としてみるか、大金を払う価値のあるものとして見るか。そこに見方を与えることで、そのものの持つ意味合いも大きく変わってくる。
ゲーム『かつえさん 鳥取の飢え殺し』に関して言えば、「話題に乗って金儲けのために作ったジョークゲー」と見ることもできるし、実際そういう見方が多いだろうが、「(実際に包囲網から出てこようとする一般人を銃で撃ったかは別として)鳥取城を包囲する側の兵はプレイヤーと同じ複雑な気持ちでそこに居たんだろうな」と感じながらプレイすることだってできる。BGMがお経(?)になっている点は、「城内の人が飢えて苦しんでいる事に対して、囲んでる自軍兵も哀れみを感じ、お経を唱えながら、命令を遂行している」みたいな雰囲気を、「追体験」できるとも言えよう。(そして、これはもしかしたら今後我々が戦争に行かなくてはならなくなった時に我々が経験するであろう、哀れみや、残忍さを無感情に押し殺し、殺される人たちへの個人的感情を捨てて、言われるままに戦わなければいけないというやるせなさの先行体験なのかもしれないのだ!)
現時点でGoogle Play上のゲームのレビューは、かつ江さんの存在と同じく賛否両論だ(最高の5つ星評価が4、最低の1つ星が2)。このゲームには広告が表示され、作者は広告で収入を得ていることも(どれだけ儲かるかは知らないが)考えられる。だが、お金のためであろうとも、せっかく世に出たかつ江さんを生殺しのままにせず、ゲームとして公開したことは評価できる。
=がんばれかつ江さん=
一人の鳥取市民として、かつ江さんに関してはキャラクターそのものにしろ、そこから派生したゲームにしろ、嬉しい。なぜうれしいかといえば、内外から批判が多く集まった、税金の無駄遣いである鳥取の「国際まんが博」や、同じく内外から批判の多い「砂の美術館」などとは違い、県なり市なりからの押し付けではなかったからだ。
鳥取市が公募し、市民が産み出したものを、鳥取市が採用し、公開したものが、話題となり自ら広まっていったのだ。ゲーム化だって、作者には金儲けをしようという気持ちもあっただろうが、そもそもかつ江さんが話題になっていなかったら広告収入も得られないわけで、「鳥取には砂丘があるから砂で彫刻をつくろう。市民には砂像があまり受け入れられてはいないけど…そうだ、血税を費やして建物もつくろう」みたいにして出来上がった「砂の美術館」とはワケが違うのだ。
お隣の島根県とは違い、自虐的に自らをアピールすることすらできなかった鳥取にとって、かつ江さんが公開されたことは大きな前進だろう。「なりふり構わずやる」となると困るが、今後はもっとこういった、人々に本当に話題にされることを、話題にしている当人たちが盛り上げていることを、県や市がサポートしてくれる方向になっていったらな、と思う。
(abcxyz)
=兵糧攻めをキャラクター化したらダメか?=
かつ江さんさんは、鳥取の歴史や鳥取そのものに関心を持ってもらうキャラクターとして悪くないと思う。それにかつ江さんさんが不謹慎ならば、元々戦いのために建造されたであろう城をディフォルメし、悲劇の起きた鳥取城なのに花吹雪が舞い、酒を飲んでいるのか頬を赤らめ、ヒトラーのような髭まで生やした鳥取城公式マスコットキャラ「とりのじょう」だって表面的に見るから不謹慎さが見え辛いだけで、不謹慎さの度合いは変わらないであろう。
例えば、タロットカードの「死神/死」のカードは、黒死病/ペストを表しているとも言われている。大抵の場合その絵柄は、骸骨がまるで生きているかのように立っていたり、動いていたりする様が描かれている。つまり、この見方をした場合、この「死神」のカードは「黒死病」を象徴するキャラクター=マスコットキャラといえるわけだ。これを黒死病と関連付けなくとも、このカードが死の象徴であることには間違いなく、死体そのものであるはずの骨が、生者のように動く姿が描かれているわけであり、それは「兵糧攻め」を象徴した「かつ江さん」というキャラクターと重なり合う。(「せんとくん」でも公開当時問題になったと聞くが、あちらは少なくともデザイン面での問題に限れば、宗教的モチーフを連想させるキャラクターであったために起きた問題で、その点は日本人の宗教に対する意識の軽さや無理解に起因し、「かつ江さん」の問題とは少々違った問題であろう。)
なお、この「かつ江さん」を目にした同名の中学生が「自殺する」などと親に訴えた、なんて報道もあるが、「実存する人名を持つネガティブ/ポジティブな印象を持つキャラクター」が有名になることにより、いじめに繋がるといった話は避けられない話しだ。広島の「原爆の子の像」=「禎子像」だって、『リング』の「貞子」だって、同名なために同級生にネタにされた人がいた、なんて話は学生時代聴くことがあった。ただ、かつ江さんは架空のキャラクターであるから、改名するようなこともあるかもしれないし、それが悪いこととも言えないだろう。しかし「飢え殺し」という言葉とかけているから「かつ江さん」という名称になってはいるが、もし実際に「かつ江」という名前の人物が当時実在しており、その人をモデルにしていたら、このような名前がどうこうといった問題はなかったことだろう。私の知り合いのエジプト人であるフセインさんはイラクの「サダム・フセイン元大統領」のせいで日本で姓を呼ばれた時に周りの人から怪訝な目で見られていたし、同じ姓や名の人が迷惑を被るから公開をやめてとか改名してというのは、「安倍という苗字を持っている人が外国の人から右翼呼ばわりされて困るから安倍首相辞めてよ」という話と似て聞こえる。
それにしても一度公開されたかつ江さんが、(一部報道では)たった数件の批判メールを受けただけで取り下げられるというのは非常に変な話だ。その後予想されるより多くの批判を受けて立つ自信がなかったのだろうか。それとも元々批判が来ることは予期しており、話題を生みたいがためだけに、「公開して、批判が来たら公開中止しましょうか」と、公開中止部分まで予定立ててやっていたのだろうか。
このキャラクターが公開される以前から、Googleで「鳥取城 」(とっとりじょう スペース)と入力すると検索候補として「鳥取城 兵糧攻め」と表示されるほどだったので、そもそも鳥取に城があったということを知る人にとっては、兵糧攻めの話もよく知られた話だったのであろう。だがそもそも鳥取に城があったということを知らない人が多い中で、かつ江さんが短い間でも出てきたことは意味があることであった。
(日本海に)大きな波を立てて登場し、公開中止となったために、その波間にいま飲まれている状態のかつ江さんではあるが、まだ完全に海の藻屑となったわけではない。
=史実を(適当に)ゲーム化したらダメか?=
現在「期間限定配信」でAndroidデバイス向けに『かつえさん 鳥取の飢え殺し』というゲームがrin studioから公開されている。鳥取城から逃げてくるかつ江さんたちをプレイヤーが鉄砲隊で「やっつけ」るゲームで、ゲームとしての完成度は高くはない。不謹慎と見る向きがあるのも当然だが、「将棋」にしろ『信長の野望』にしろ、現実の戦争を簡略化してエンターテイメントにしたものであり、このゲームも見方によっては教育的価値を持っているといえるかもしれない。
史実をある意味捻じ曲げたり、ディフォルメしたりする行為は、歴史の中でも多く起こっていることだろうし、それらを大衆に向けた作品として作るときには更にこれに拍車がかかっていることだろう。大抵の戦争映画やゲームは、戦争を美化しがちだし、その勝者が正しかった用に描いたり、(『軍師官兵衛』で鳥取城の飢え殺しがすっ飛ばされたように)それを伝えることが都合が悪ければ(表現上の都合や資金面での都合も含め)それを伝えないことで、「寝た子を起こさない」ようにして起こったことを一般大衆に忘れ去られるにまかすことも可能だ。
第2時大戦後をモチーフにした映像作品や、特にゲーム作品では事実のディフォルメ行為はとても一般的であり、「ノルマンディー上陸作戦」を追体験できるものなども多数あるし、「敵は極悪非道のナチ兵だから殺していい」という図式が古くから成立している。1992年のゲーム『ウルフェンシュタイン3D』に至っては、敵はナチ兵なのだが、ミュータント兵が出てきたり、ヒトラーをロボット化したような敵まで出てくる(ちなみに『ウルフェンシュタイン』シリーズは1981年から続くゲームシリーズで、今年も新作が出ていることからも、この作品が大衆に受け入れられていることが見て取れよう)。この作品では面白いことに、敵として犬が出てくるのだが、動物愛護団体からクレームが出たために、バージョンによっては本来犬であるはずの敵がネズミになっていたりした。つまり人を殺してもよくて、犬を殺してはダメということから表現が変更されるという、変な事になった。これはネズミや犬なら殺して良いと私が思っているという意味ではない。人にせよ犬にせよ、連合軍であれ枢機軍であれ、(現実の戦争では)下された命令に従い、人を殺していたはずで、立場上は同じはずなのに…。
ナチ=悪(だから個人の思想はどうであれナチの兵隊もすべて悪)とみなし、戦争を正当化したメディア作品、そしてその一般大衆にとって正当化されてしまった戦争を元に、ディフォルメした作品が存在し、それが「こんなの倫理的に間違っている」として潰されること無く、大衆に受け入れられてきた。現実離れした脚色を(あまり)加えずに第二次世界大戦から未来戦(未来線は勿論完全なフィクションだが)を、主に連合軍側から描いてきた『コールオブデューティー』シリーズでは当然ながら日本軍が敵として登場する作品『Call of Duty: World at War』(2008年、日本版未発売)が存在する。
そんなゲームが今も出てきている状況で、出てきたのがこの『かつえさん 鳥取の飢え殺し』である。
これはほぼどのようなゲームにしても、芸術作品にしても、何にしたって言えることだろうが、それに対する見方を変えるだけで内容の受け止め方も大きく変わる。例えば前述の『ウルフェンシュタイン3D』だって、カルト研究だってしていたというナチのことだから、もしかしたら連合軍が勝利しなかったらミュータント兵とかも作っていたかもしれないので「歴史のもし…」のシミュレーションとしても見ることができるが、逆に言えばナチは一般兵から犬の一匹まで殺すべき対象として描いた作品という見方もできる。『Call of Duty: World at War』だって、日本軍と戦った兵士を主人公に、戦争の苛酷さをゲームというオブラートに包んで現代の若者たちに教える作品という見方もできるし、日本人を敵として考えるよう洗脳するためのプロパガンダゲームと見ることも可能だ。主人公がヤギになって街中を暴れまわれるゲーム『ゴート・シミュレーター』だって、一見するとただの冗談のようなゲームであるが、作者はその作品に哲学的な話を仕込んでおり(後付的なところもあるのかもしれないが)、作品の表層的な部分の解釈/見方を変えることで(拡大解釈とも言えるだろうが)それを高尚な作品に変えることも可能だ。
『テトリス』だって一瞬で状況を見極め、的確な判断を下すための訓練ゲームと見ることも、ただのブロック消しゲームとみることもできる。有名画家が描いた絵を、子供の描いた絵としてみるか、大金を払う価値のあるものとして見るか。そこに見方を与えることで、そのものの持つ意味合いも大きく変わってくる。
ゲーム『かつえさん 鳥取の飢え殺し』に関して言えば、「話題に乗って金儲けのために作ったジョークゲー」と見ることもできるし、実際そういう見方が多いだろうが、「(実際に包囲網から出てこようとする一般人を銃で撃ったかは別として)鳥取城を包囲する側の兵はプレイヤーと同じ複雑な気持ちでそこに居たんだろうな」と感じながらプレイすることだってできる。BGMがお経(?)になっている点は、「城内の人が飢えて苦しんでいる事に対して、囲んでる自軍兵も哀れみを感じ、お経を唱えながら、命令を遂行している」みたいな雰囲気を、「追体験」できるとも言えよう。(そして、これはもしかしたら今後我々が戦争に行かなくてはならなくなった時に我々が経験するであろう、哀れみや、残忍さを無感情に押し殺し、殺される人たちへの個人的感情を捨てて、言われるままに戦わなければいけないというやるせなさの先行体験なのかもしれないのだ!)
現時点でGoogle Play上のゲームのレビューは、かつ江さんの存在と同じく賛否両論だ(最高の5つ星評価が4、最低の1つ星が2)。このゲームには広告が表示され、作者は広告で収入を得ていることも(どれだけ儲かるかは知らないが)考えられる。だが、お金のためであろうとも、せっかく世に出たかつ江さんを生殺しのままにせず、ゲームとして公開したことは評価できる。
=がんばれかつ江さん=
一人の鳥取市民として、かつ江さんに関してはキャラクターそのものにしろ、そこから派生したゲームにしろ、嬉しい。なぜうれしいかといえば、内外から批判が多く集まった、税金の無駄遣いである鳥取の「国際まんが博」や、同じく内外から批判の多い「砂の美術館」などとは違い、県なり市なりからの押し付けではなかったからだ。
鳥取市が公募し、市民が産み出したものを、鳥取市が採用し、公開したものが、話題となり自ら広まっていったのだ。ゲーム化だって、作者には金儲けをしようという気持ちもあっただろうが、そもそもかつ江さんが話題になっていなかったら広告収入も得られないわけで、「鳥取には砂丘があるから砂で彫刻をつくろう。市民には砂像があまり受け入れられてはいないけど…そうだ、血税を費やして建物もつくろう」みたいにして出来上がった「砂の美術館」とはワケが違うのだ。
お隣の島根県とは違い、自虐的に自らをアピールすることすらできなかった鳥取にとって、かつ江さんが公開されたことは大きな前進だろう。「なりふり構わずやる」となると困るが、今後はもっとこういった、人々に本当に話題にされることを、話題にしている当人たちが盛り上げていることを、県や市がサポートしてくれる方向になっていったらな、と思う。
(abcxyz)
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