James F./ガメ・オベール氏の投稿への批判の追記

この投稿は、前回の投稿の補足として日本語で記し、ツイッターで投稿した物を元に大幅に加筆修正したものである。加筆に関しては特に私のツイートに反応戴いた方々(その多くにはブロックされてしまったが…)への返信として構築した考えも混ざっている。改めて彼らにもお礼を述べたい。

また、ツイッターで幾度となく説明しても理解して貰えないのは悲しいことだが、念のためここで冒頭に記しておくと、私は別に日本に社会問題が無いと言っているのでは無いし、日本を批判しもする。現在はフィンランド在住であるが、もともと海外を目指した理由の一つは日本で一般的な価値観と私の価値観があまりにも違いすぎると感じたからである。

それらの点を完全にスルーして単純に「James F.氏の批判をしているからこいつは日本絶対主義者だ」(そんな言葉があるかは知らないが)、「日本を批判されるのが我慢できないんだ」などと言われる方が少なからずおられた。そんなことは全然無く、日本の物事について自分でも 批判するし、真っ当な批判であれば納得、同意するし、自分が同意できないものでもその視点が理解できれば頷くことはできる。今回の物は論点がずれているし、筋が通っていないしで、真っ当な批判ではなかったから反論したのだ。

そう言っても理解してくださらない方々にはまず私はこう言いたい(正確には「私はこう言った」なのだが、もし上記の点が理解できないというのであれば以下のコメントはあなたにも向けたものである):

私は、何かを強く信じてそのために行動できるあなたを尊敬しています。そして、James F.氏に感化されて日本社会の問題を解決しようという意思を持っておられるあなたを尊敬しています。ただ、James F.氏の意見を批判する人を感情にまかせて批判しているだけでは日本社会の問題解決の助けになることはできません。

以前お話ししたように、James F.氏の視点もとても興味深いものが多いのも事実です(興味深いからこそ今回もここまで話が発展しているのです)。しかし、人間は誰しも完璧ではありません。弘法も筆の誤りと言うようにJames F.氏の視点も完璧では無く、批判できるところも時折あるということを認識されることを願います。

私はJames F.氏は日本を心から愛していると思います。なぜなら、愛が無ければ自分の理想から離れた日本の姿に怒りを感じることも、それを解決しようという思いも、ましてや何の利益にもならないのにブログを書こうなんてしないでしょう。

しかし彼が日本に対して愛を持っているからこそ、彼の価値観に理解を示される方々は、その価値観への批判に対してただ日本批判を繰り広げて日本を諦めるのでは無く、例え批判者が間違っていると考えられるとしてもad hominemに陥らずに、建設的に批判者と議論を重ねて、新たな概念を得て自分の知識や視点を豊かにすると共に、問題の本質を見つけ出して、日本社会の問題解決を目指すことを優先するべきでしょう。

そうすることで初めてJames F.氏に還元できるのだと私は思います。

さて、その点をご理解戴いた上で、私は氏の投稿で「integrity」という一つの語の欠如から日本、フィンランド、その他の言語文化にモラルがないとしている氏の主張への批判をしているのだ。それと共に、James F.氏のこの投稿は多くの矛盾点が含まれているのでそれも含めてこの考え方の何がおかしいかを指摘している。

 まず知っておいて欲しいのは、私は昔からJames F.氏の文章を時折読んでおり、好いているということ。そして、今回の氏のブログ投稿に関しても、彼の意見には私も妻も反対するものの、興味深いテーマであったことは事実であり、私たちはこの1週間の間integrityの話題を様々にし愉しい時間を過ごしたということである。この点では氏に感謝したい。

しかし残念なことに、先日のJames F.氏のツイートに対する私のコメント(ツイッターでは読みにくいのでブログ投稿版をどうぞ)は、どうやら一部の人には理解されないようだ。私の意見への反論に答えるとブロックされてしまうことがあったのも、せっかく別の視点を持った人に私の意見を伝える機会を失ったようで嘆かわしい。そのためここに再度日本語で記すことにする(英語の読み取り違いから来る批判もあった)。

まず、今回の私の投稿は、前回の投稿と異なる部分があるかもしれないことをあらかじめ断っておこう。「ほらやっぱりintegrityの無さが露見しただろう!」という批判が飛んでくるのもおかしくないだろうが、今一度integrityとは何かを考えて欲しい。integrityの基幹となるmoralはあくまでも枠組みであり、それを当てはめる範囲は様々である。「意見が変わった」ことをして「integrityの無さ」を判断すると、より大きな枠組みのmoralとintegrityを見逃してしまうのだ。

私は「不変性は存在しない」という考えを持っている。物事、人々、文化、言語、全ては変化する。人は考え、変わっていく。この視点に立って考えると、「意見が変わった」ということは「不変性は存在しない」という考え方のintegrityの現れであることが判るはずだ。

・何をmoralとするか

James F.氏の出す「日本で満員電車の優先席が満席の状況で妊婦が立っている状況で誰も席を譲らない」という状況を考えて見よう。ここでは氏の言うmoralは「妊婦に優先席を譲る」こととなっている。

だが、混んだ電車の中で妊婦が立っている状態が存在しても、そこにあり得る唯一絶対の望ましい状況は必ずしも「妊婦が席に座る状況」ではない。妊婦にとって座り立ちが苦痛であり立っている状態が理想であるかもしれないし、妊婦が立ったから他の人が座った状態である可能性も否定できない。

私が電車が混み合った状況で理想と考える状態は「声を掛ける」ことだ。なぜなら必ずしも電車内で立っている人が座りたいわけではないからである。つまり、必ずしも妊婦にとって座り立ちが苦痛であり立っている状態が理想では無く、それを知るには声を掛け尋ねてみるのが一番だと考えているからだ。

・観察者の問題

James F.氏は妊婦や座った人々に尋ねてこの状況でだれも妊婦に優先席を譲らなかったと判断したのだろうか?それとも、どのような経緯があってこの状況が発生しているのかの理解無く、偶然その場で目撃したことのみで判断したのだろうか?

この状況の文脈を知ること無く、外から判断して「この人は座っているべき/この人達は立っているべき」と決めつけることは意味が無く、すなわちその場にintegrityやmoralの欠如を見いだすことはできない。

それと同時に文脈を知ることを怠ったり、座っている人に席を妊婦に譲るように提案するなどの行為が伴わずに、この状況をそのままにしておけば、integrityやmoralの批判はJames F.氏自らに返ってくる。

(James F.氏は日本に住んでいないのだから日本社会文化の問題の一部にはならないとの批判も受けた。だが例えば京都などの国際的観光地が観光客というごく一時的に日本を訪れる人々が京都の現在の社会文化に与える影響は無視できないし、港町では交易が行われることで日本に海の向こうから誰も足を踏み入れること無しに社会文化に影響がある。)

・限定的な例を全体に当てはめることはできない

この例や、日本の会議では議論が行われないといった話しは、ただのanecdotal evidence実例証拠でしかなく、そこから日本のintegrityの無さやmoralの無さに話しを結びつけるのは、極端な一般化、単純化である。

(加えて、日本の会議で議論が行われないことを批判的に書きながら、私の投稿した批判的なコメントをブロックするのは自己矛盾である。とは言えこれまでにも幾度となくソーシャルメディア上で訳のわからないいちゃもんを付ける人に絡まれてきたであろう氏がそうするのを理解できないわけではないが、日本社会のmoralとintegrityをこの点で批判するのであれば自己矛盾からは逃れられない)。

読者は、それが果たして妊婦だったか、氏はこの状況を何度見た上で断言するのか、氏の語るところの「few」を除いて誰も席を譲らない状況が日本で普遍的か、「few」が席を譲る状況があるのだから氏の言うintegrityは社会に存在するのではないか(ただしintegrityが低い可能性はある)、これはどこで起きたことだったか、田舎の満員(もしくは全席が埋まった)電車では同じことがおきたか、そしてJames F.氏は日本で議論のない会議にしか参加したことないのか、などの点も考えると面白いだろう。

なぜなら、このように特定の事象のみを選択してそれを社会に適応しようとすれば、以下の例も成り立つからだ:イギリスにはこれだけ多数の殺人者、強盗者、連続殺人にテロも起きているから(Wikipedia - List of major crimes in the United Kingdom)、当然ながら英語もintegrityもmoralも概念上にしか存在しない救う価値のない言語という見方になる。(私がそう思っているというのではなく、このような変な論理がまかり通ってしまうという意味で挙げた例だ。)

また、このような単純で限定的な例をピックアップすれば、「integrity」という言葉の存在とmoralに関するJames F.氏の主張を逆に当てはめることも可能だろう。

例えばintegrityと言う語の存在しないフィンランドの首都では、存在するはずのイギリスの首都よりも落とした財布が戻ってくる(ヘルシンキ11/12、ロンドン5/12)というReader's Digestによる簡単な実験があるのだが、これを見て「integrityという語/概念の存在しないフィンランドは、概念の存在するイギリスと異なりモラルがある。英語という言語は果たして救う価値のある存在だろうか?」と言うこともできる。まがいなりにも実験結果をベースにしている分氏の説よりも説得力はあるかもしれないが、結局のところこのような限定的な例を挙げてintegrityやmoralという概念を社会全体に適応するのはおかしな話しだということがおわかり戴けたのではないか。

・日本のintegrityが別の場所にある可能性

妻によれば日本学の授業では日本は「調和を優先する文化」と教えられるそうだ。

この状況では、James F.氏の話からは誰も苦しんでいるわけでも、文句が出ているわけでもないようである。調和が優先されることがmoralとされた場合、個々人が不満無く存在する状況であればそこにはintegrityが存在する。その上で、妊婦が苦しそうな状況や、座らせて欲しいと言われれば席を譲られた可能性もある。

その上で、もし仮にJames F.氏の出した「優先席と妊婦」の例が日本において普遍的であると決めつけてしまえば、それはそれでconsistency/一貫性という点でのintegrityの存在証拠である。

会議の場でも譲れない話題で討論を交わす以外では、場の調和を優先する。そこにintegrityが無いとは言えないだろう。

(くどいかもしれないが一応述べておくと、フィンランド語にもintegrityに相当する語はない。妻はフィンランド人でありフィンランド語修士であり、フィンランド母語者が適当に「こんな言葉はフィンランド語に存在しない」と言っているのとは異なることも述べておこう。このように、日本語以外の言語にも同じ意味合いの言葉はない場合がある。するとその国文化にもintegrityとmoralが欠いているだろうか?)

・ある語の存在(もしくは不在)が、その言語文化に語が意味することが存在(不在)する証拠にはならない

それに、integrityという言葉、概念があるからと言ってその言語文化におけるintegrityの普遍性を示すものではない。日本語には「平等」という言葉が存在するが、その言葉と概念の存在によって平等は達成されているだろうか?

英語という言語に宗教的性質が編み込まれていると氏は記すが、これが示しているのはそれがintegrityとmoralの枠組みとして機能しているということであろう。

氏は「Without integrity then corruption, bribery, fraud, deceit, lying, cheating, deceiving, stealing is acceptable, is it not?」と書いているが、英語圏では人々はintegrityという語の存在によって日本よりもそれらの物事が少ないだろうか?そして、日本ではただintegrityという語が存在しないだけでそれらの事々が「acceptable」であるだろうか?

ある人物がその文化で許容される価値観の元に善行を行った場合であっても、それがmoralに基づいた行動か、それともhypocrisy/偽善による行動かの判別もつかないはずであり、犯罪率の単純比較で判明するものでもないと断ってはおくが(そしてこれは善行についても同じことが言える)、世界の犯罪率ランキングでイギリスやアメリカと日本を比較するのも面白いことだろう。

・私達が「帝国主義的」と批判した理由

私達は「I think you're view of point in this text is extremely imperialistic: you are basically saying that only the moral of a "white Christian man"」と前回記した。Imperialistic/帝国主義的、「white Christian man」というのは、帝国主義のイギリス的価値観を示している。それはすなわち、自らが他の野蛮な国々よりも優れているという視点から、他国文化を見下し、征服して彼らの"優れた"価値観の元教育するというものである。(文化帝国主義と言った方が正しいかもしれない。)

integrityという語の欠如(と電車内で垣間見た光景)から、日本では「corruption, bribery, fraud, deceit, lying, cheating, deceiving, stealing is acceptable」であると示唆する見方が帝国主義的であるということだ。

果たしてイギリス帝国にmoralはあっただろうか?「なかった!」と答えたらこれも考え物であり、イギリス帝国なりのmoralが存在したはずである。そのmoralを今あなたが見返してどう思うかは別の話だ。

なぜならmoralは絶対的な価値観ではない。時、状況、文化、言語によって変化する物だ。そのため、絶対的なmoral/integrityは「想定外」に直面する。帝国主義的価値観もまた、その絶対性により徐々に帝国としての形を消していったのはその欠点を示す物かもしれない。

ここまで読んで戴ければ、integrityと言う語の欠如から日本語の存在意義をどうこう言った話は飛躍しすぎているということもご理解戴けると思う。


*一部私のintegrityに関する理解が間違っているとのご指摘を受けてintegrityをmoralに置き換えた部分がある。Twitterでご指摘戴いたれお氏に感謝を述べたい。

Source: To my young Japanese friends whom I haven’t met yet, Wikipedia - List of major crimes in the United KingdomReader's Digestによる簡単な実験

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